冬季オリンピックの華ともいえるボブスレーは、最高時速150kmを超えるそのスピードから「氷上のF1」と呼ばれています。流線型のソリが氷の壁を疾走する姿は圧巻ですが、ソリに乗っている選手たちが具体的にどのような役割を担っているのか、詳しく知っている方は少ないかもしれません。
特に、スタート時に全力でソリを押し込み、最後尾に乗り込む「ブレーキマン」の存在は、チームの勝敗を分ける極めて重要な役割を持っています。一方で、先頭でハンドルを握る「パイロット」とは、求められる能力も滑走中の動きも大きく異なります。この記事では、ボブスレーにおけるブレーキマンの役割や操縦を行うパイロットとの違いについて、初心者の方にも分かりやすくお伝えします。
ボブスレーのブレーキマンの役割と操縦を行うパイロットとの違い

ボブスレー競技において、チームは大きく分けて「パイロット(ドライバー)」と「ブレーキマン(ブレーカー)」の2つの役割で構成されています。まずは、それぞれの役割がどのように異なり、レース中にどのような責任を負っているのかを整理してみましょう。
パイロットとブレーキマンの基本的な役割分担
ソリの最前列に座るパイロットは、その名の通りソリの操縦を一身に担う責任者です。足元にある「Dリング」と呼ばれるハンドルに繋がったロープを操り、前方のランナー(エッジ)を動かして滑走ラインを決定します。わずかな操作ミスがタイムロスやクラッシュに繋がるため、極限の集中力が求められます。
対して、最後尾に位置するブレーキマンの最大の役割は、スタート時の爆発的な加速とゴール後の確実な停止です。スタート地点でソリを力強く押し出し、最高速度に達するまでの推進力を生み出すのは彼らの筋力にかかっています。滑走中にはブレーキをかけることはなく、ゴールラインを通過した直後にのみ、レバーを引いてソリを安全に止めます。
操縦を担当するのがパイロット、動力源と停止を担当するのがブレーキマンという明確な棲み分けがなされています。このように役割がはっきり分かれているからこそ、お互いの技術を信頼し合うチームワークがボブスレーの醍醐味といえるでしょう。
【パイロットとブレーキマンの主な違い】
・パイロット:最前列に座り、ハンドルでソリを操縦する。滑走ラインの選択が主な任務。
・ブレーキマン:最後尾に座り、スタート時の押し出しとゴール後の停止を行う。滑走中は姿勢を低く保つ。
2人乗りと4人乗りにおける編成と呼称の違い
ボブスレーには「2人乗り」と「4人乗り」の種目があり、人数が増えることで役割も少し複雑になります。2人乗りの場合は、単純にパイロット1名とブレーキマン1名のペアとなりますが、4人乗りの場合はその間に入る選手たちが存在します。
4人乗りの場合、2番目と3番目に座る選手は一般的に「プッシャー」と呼ばれます。彼らの主な任務は、スタート時にソリを横から押し出すことで、ブレーキマンと同様に高いスプリント能力とパワーが求められます。しかし、ゴール後にブレーキを操作するのはあくまで最後尾のブレーキマンです。
呼称としては、最後尾の選手を「ブレーカー」と呼び、中間の選手を「プッシャー」と区別することが多いですが、広義にはパイロット以外の全員を「ブレーカー(ブレーキマン)」と総称することもあります。人数が増える分、スタート時の足並みを揃える技術がより重要になります。
1人乗り競技「モノボブ」における役割の統合
近年の冬季大会から採用された「モノボブ」は、女子選手が1人でソリを操る新しい種目です。この競技では、通常は分担されている全ての役割をたった1人の選手が完結させなければなりません。つまり、1人でソリを押し出し、素早く乗り込み、操縦を行い、ゴール後にブレーキを引くのです。
モノボブの登場により、選手には「パイロットとしての操縦技術」と「ブレーキマンとしての瞬発力」の両方が高いレベルで求められるようになりました。チーム競技とは異なり、ミスをカバーしてくれる仲間がいないため、個人の総合力が試される非常に過酷な種目といえます。
観戦する際は、1人の選手がどのようにして巨大なソリを加速させ、息つく暇もなく操縦モードへと切り替えるのかに注目してみてください。ブレーキマンとしての筋力とパイロットとしての繊細さを併せ持つ、超人的なパフォーマンスが見どころです。
スタートの数秒が勝負!ブレーキマンに求められる圧倒的なパワー

ボブスレーにおいて「スタートで勝負の8割が決まる」と言われるほど、最初の数秒間は重要です。この区間でいかにソリに勢いを与えられるかが、最終的なタイムを大きく左右します。ここでは、ブレーキマンが担うスタート時の重責について詳しく見ていきましょう。
50mを全力で駆け抜けるスプリント能力
ブレーキマンに最も求められる資質の一つが、陸上競技の短距離選手に匹敵する「スプリント能力」です。スタート台から約50メートルの助走区間において、数百キログラムあるソリを押し出しながら、誰よりも速く足を回転させなければなりません。
氷の上という滑りやすい条件下で、スパイクがしっかりと氷を捉え、地面からの反発をソリに伝える技術が必要です。トップレベルのブレーキマンの中には、100メートル走を10秒台で走る俊足の持ち主も珍しくありません。彼らの走力が、重いソリを初動からトップスピードへと導くのです。
この助走区間のタイムを「スタートタイム」と呼び、この数値がわずか0.01秒遅れるだけで、ゴール時にはその数倍の差となって現れます。ブレーキマンはまさに、ソリに命を吹き込む「エンジンの始動役」としての役割を果たしているのです。
数百キロのソリを動かす爆発的な筋力
ボブスレーのソリは、2人乗りで空車重量が約170kg、4人乗りでは210kg以上にもなります。ここに選手たちの体重が加わると、総重量は400kgから600kgを超えます。この巨大な鉄の塊を、静止状態から一瞬で動かすには並外れた「爆発的な筋力」が必要です。
特にスタートの一歩目、重力に抗ってソリを押し出す瞬間のパワーは凄まじく、下半身の筋肉だけでなく背筋や腕の力も総動員されます。そのため、ブレーキマンはウエイトトレーニングによって強靭な肉体を作り上げており、スクワットで200kg以上を持ち上げる選手も多く存在します。
ただ速いだけでなく、圧倒的な「強さ」を兼ね備えていなければ、ブレーキマンの重責を全うすることはできません。彼らの分厚い胸板や丸太のような太ももは、氷上の重戦車を動かすために研鑽された努力の結晶なのです。
乗り込みのタイミングがもたらすタイムへの影響
スタートでソリを十分に加速させた後、選手たちは疾走するソリに飛び乗らなければなりません。この「乗り込み」の作業が、実は非常に高度な技術を要します。ブレーキマンはパイロットが乗り込んだのを確認し、最後のひと押しを与えてから自分もソリの中へ滑り込みます。
このとき、乗り込むタイミングが早すぎると十分な加速が得られず、逆に遅すぎるとソリのバランスを崩したり、空気抵抗を増やしたりする原因となります。全員が乱れなく、スムーズに座席に収まることで、スタートで得たエネルギーを滑走スピードへと無駄なく変換できるのです。
もし乗り込みに失敗してソリが激しく揺れてしまうと、氷の壁に接触してしまい、せっかくの加速が台無しになってしまいます。ブレーキマンは全力疾走の極限状態にありながら、コンマ数秒のタイミングを見極める冷静な判断力も同時に発揮しているのです。
滑走中とゴール後のブレーキマンの重要な仕事

ソリに乗り込んだ後のブレーキマンは、一見すると何もしていないように見えるかもしれません。しかし、滑走中やゴール後にも、安全かつ迅速にレースを終えるための非常に重要な仕事が残されています。
空気抵抗をゼロに近づける「おもり」の役割
滑走が始まると、ブレーキマンは頭を深く下げ、背中を丸めてソリの中に完全に身を隠します。この姿勢は単に座っているわけではなく、走行中の「空気抵抗を最小限にする」ための極めて重要な戦略です。時速140kmを超える世界では、わずかな空気の乱れが致命的なタイムロスを招きます。
また、ブレーキマンは「おもり」としての役割も担っています。物理学的に、重量が重いほど慣性の法則によって最高速度が維持されやすくなるため、レギュレーション(規定)の範囲内で体重を重く保つことが推奨されます。彼らは滑走中、自らが精密な部品の一部になったかのように微動だにせず、ソリの重心を安定させます。
パイロットがコーナーで受ける強烈なG(重力加速度)に耐えながら操縦している背後で、ブレーキマンもまた、視界ゼロの状態で凄まじい振動と重圧に耐え忍んでいます。外からは見えませんが、そこには「静かな戦い」が存在しているのです。
最高時速150kmから停止させるブレーキング技術
フィニッシュラインを通過した瞬間、ブレーキマンの最もスリリングな仕事が始まります。それが「停止のためのブレーキング」です。ソリの最後尾には両手で引く大きなレバーがあり、これを引き上げることでソリの底から鋭い金属製の爪が突き出し、氷を削りながら摩擦でソリを止めます。
ゴール後の減速区間は限られているため、適切なタイミングで一気にブレーキをかけなければ、コースの終点にあるクッションに激突してしまう恐れがあります。氷の状態や残り距離を瞬時に判断し、最適な力加減でレバーを引くことが求められます。
この際、ブレーキをかけるのが早すぎてフィニッシュラインの手前で減速してしまえば失格や記録低下に繋がります。逆に遅すぎれば事故を招くため、ブレーキマンの腕の見せどころでもあります。最高速度から轟音を立てて氷を削り、火花を散らしながら停止するシーンは、レースの締めくくりにふさわしい迫力です。
ボブスレーのブレーキは、滑走中に速度を調整するために使うことは原則としてありません。オリンピックなどの競技会では、滑走中にブレーキを使用すると大きなタイムロスになるだけでなく、マナー違反や技術不足とみなされることもあります。
パイロットの目となるためのコース把握
ブレーキマンは滑走中に頭を下げているため、前方の景色を見ることはできません。しかし、一流のブレーキマンは、ソリに伝わる振動やGのかかり方、そして氷の削れる音だけで、現在コースのどの位置を滑っているのかを正確に把握しています。
彼らは事前にコースの形状を完璧に暗記しており、次にどのようなカーブが来るのかを体感で理解しています。これにより、万が一パイロットが操縦不能に陥ったり、クラッシュの兆候があったりした場合でも、即座に反応して安全確保に動く準備を整えています。
また、ゴール後にパイロットと滑走内容を振り返る際、ブレーキマンの「体感データ」は貴重なフィードバックとなります。「あのカーブでソリが少し跳ねた」「氷の食いつきが甘かった」といった情報を共有することで、次の滑走でのタイムアップに繋げていくのです。
異業種からトップ選手へ!ブレーキマンのキャリアとトレーニング

ボブスレーのブレーキマンには、もともと別のスポーツで活躍していた「転向組」が多いという特徴があります。なぜ他の競技からボブスレーの世界に飛び込む選手が後を絶たないのか、その背景と過酷なトレーニング事情を探ってみましょう。
陸上やアメフト選手が転向する理由
ブレーキマンのスカウト対象として最も多いのが、陸上競技の短距離選手やアメリカンフットボールの選手です。これらの競技で培われる「爆発的なダッシュ力」と「重いコンタクトに耐えうる筋肉量」は、ボブスレーのブレーキマンに求められる能力と完璧に一致します。
特に夏季競技でトップレベルに達した選手が、更なる挑戦の場を求めて冬季競技であるボブスレーに転向するケースは世界中で見られます。映画『クール・ランニング』のモデルとなったジャマイカチームも、もともとは陸上選手たちがボブスレーに挑んだ物語でした。
ボブスレーは「後天的な技術」よりも「先天的な身体能力」がスタートタイムに直結しやすいため、異業種からの参入が成功しやすいスポーツといえます。俊足で屈強なアスリートにとって、自分のパワーを純粋にスピードへと変換できるボブスレーは、非常に魅力的な舞台なのです。
世界トップクラスの選手の身体能力データ
実際に、世界レベルで活躍するブレーキマンの身体能力は驚異的です。多くの選手が身長180cmから190cmを超え、体重は100kg前後の筋骨隆々とした体格をしています。それでいて、50メートルを5秒台で駆け抜ける俊敏さを併せ持っています。
以下の表は、トップレベルのブレーキマンに共通して見られる身体能力の目安をまとめたものです。彼らがどれほど規格外のアスリートであるかが分かります。
| 項目 | トップ選手の目安 |
|---|---|
| 100m走タイム | 10秒3 〜 10秒8 |
| スクワット | 200kg 〜 250kg |
| クリーン(瞬発系) | 140kg 〜 160kg |
| 体脂肪率 | 10%前後(筋肉質) |
このように、ブレーキマンはまさに「走れるボディビルダー」のような存在です。単に体が大きいだけでなく、その筋肉をいかに速く動かせるかという「出力効率」の高さが、氷上の最高速度を支える源泉となっています。
オフシーズンに行われる過酷なトレーニングメニュー
氷のコースが使えないオフシーズンの間、ブレーキマンたちはどのような準備をしているのでしょうか。彼らの主戦場は氷上ではなく、陸上のトラックやウエイトルームになります。夏の間は徹底的に筋力アップと走り込みを行い、冬に向けて「エンジン」を作り上げます。
トレーニングの基本は、重いバーベルを使った高強度の筋力トレーニングと、坂道やタイヤ引きを伴うスプリント練習です。また、ボブスレー特有の動作を練習するために、車輪がついた「陸上用練習ソリ」をアスファルトの上で押し込む練習も頻繁に行われます。
こうした地道な努力の積み重ねが、冬のシーズンのわずか数秒間のスタートに凝縮されます。1ミリの狂いもなく全力を出し切るために、彼らは一年を通じて自らの肉体を限界まで追い込み続けているのです。観戦時には、その強靭な肉体を作り上げた背景にも思いを馳せてみてください。
観戦がもっと楽しくなるボブスレーのルールと機材知識

ブレーキマンの役割を理解したところで、競技そのもののルールや機材についての知識を深めると、観戦時の解像度がさらに上がります。タイムに影響を与える意外な要素や、ソリのメカニズムについて解説します。
重量がスピードを生む?ソリの総重量制限
ボブスレーにおいて、重量はスピードを出すための大きな武器です。重ければ重いほど重力加速度の影響を強く受け、滑走中の速度が落ちにくくなるからです。そのため、競技ルールでは公平性を保つために「最大重量」が厳格に定められています。
例えば男子2人乗りの場合、ソリと選手を合わせた総重量は最大390kgまでとされています。もし規定に満たない場合は、ソリに「バラスト」と呼ばれるおもりを追加して調整します。チームとしては、ソリをできるだけ軽く作り、その分だけ筋肉量の多い(体重の重い)選手を乗せるのが理想的とされています。
なぜなら、選手自身が重ければ、その分スタート時の押し出しパワーも強くなるからです。「おもりとしての人間」がどれだけ高性能であるかが、物理的にも戦略的にも重要視されるのがこの競技の面白いところです。
ハンドル(Dリング)によるステアリングの仕組み
パイロットが操るハンドルの仕組みは、一般的な自動車とは全く異なります。彼らが握っているのは円形のハンドルではなく、左右に1つずつある「Dリング」という取っ手です。このリングはワイヤーで前方のランナーと繋がっており、左右の引き具合で進行方向を微調整します。
氷のコースは常に激しく揺れており、時速140kmで滑るソリを制御するのは至難の業です。強く引きすぎればランナーが氷を削りすぎて減速し、弱すぎればコースの壁に激突してしまいます。パイロットは指先の繊細な感覚だけで、氷との対話を続けているのです。
ブレーキマンが必死に稼いだ初速を、パイロットがいかにロスなくゴールまで運べるか。この連携こそがボブスレーの勝敗の鍵を握ります。テレビ中継などでパイロットの手元が映った際は、その細かな動きに注目してみてください。
コースの「壁」をどう利用するか?ライン取りの基本
ボブスレーのコースには多数のカーブがあり、それぞれの壁は高く切り立っています。パイロットはカーブに差し掛かる際、どの高さまで駆け上がり、どのタイミングで降りてくるかという「滑走ライン」を瞬時に判断します。
最短距離を通れば良いわけではなく、遠心力を利用して加速を得るために、あえて高い位置まで登ることもあります。しかし、登りすぎれば落下の衝撃でスピードを失うリスクもあります。ブレーキマンはソリの傾きに合わせて重心を移動させ、パイロットの描くライン取りをサポートします。
滑走中のブレーキマンは視界を遮断していますが、ソリが壁のどのあたりにいるかを「重力」で感じ取っています。パイロットの意図を汲み取り、チーム全員が一丸となって理想のラインをトレースする姿は、まさに阿吽の呼吸といえるでしょう。
【ボブスレー豆知識:ランナーの温度】
ソリの底にあるブレード(ランナー)の温度はルールで厳しく制限されています。温度が高いと氷が溶けやすくなり摩擦が減って有利になるため、レース直前まで審判によって温度チェックが行われます。
ブレーキマンの役割を知ってボブスレー観戦をさらに楽しむためのポイントまとめ
ボブスレーのブレーキマンは、単に「最後尾に座っている人」ではなく、チームの動力源であり安全を守る守護神でもあります。彼らの役割を知ることで、これまで以上にレースの細部まで楽しめるようになるはずです。最後に、今回の重要ポイントを振り返りましょう。
まず、ブレーキマンとパイロットの決定的な違いは、スタートとゴールの担当か、滑走中の操縦担当かという点にあります。パイロットが繊細な感覚でラインを刻む一方で、ブレーキマンは圧倒的なスプリント力とパワーでソリを加速させるという野性的な役割を担っています。
また、滑走中におけるブレーキマンは、空気抵抗を極限まで減らすための「おもり」へと徹します。頭を低く下げ、強烈なGに耐えながら微動だにしないその姿は、タイムを0.01秒でも縮めるための献身的な努力の証です。そしてゴール後には、火花を散らすほどのブレーキングで、最高時速150kmのソリを安全に停止させるという重責を果たします。
彼らの多くが陸上競技やアメフトなどの異業種から転向してきたエリートアスリートであるという点も、ボブスレーという競技の層の厚さを物語っています。強靭な肉体と、視界ゼロの恐怖に打ち勝つ勇気を持ったブレーキマンがいなければ、パイロットもその技術を存分に発揮することはできません。
次にボブスレーを観戦する際は、ぜひスタート時のブレーキマンの走りと、乗り込む瞬間の鮮やかなタイミング、そしてゴール後の豪快なブレーキングに注目してみてください。氷上のF1を支える裏の主役たちの活躍を知れば、ウィンタースポーツの興奮がより一層深いものになるでしょう。


