スピードスケートの試合をテレビや会場で観戦しているとき、選手の足元から「パチン、パチン」という小気味よい音が聞こえてきたことはありませんか。また、よく見ると選手のシューズのかかとが刃から離れて浮き上がっていることに気づくはずです。これは「クラップスケート」と呼ばれる特殊なスケート靴の仕組みによるものです。
かつてのスピードスケートでは、靴とかかとが完全に固定されているのが当たり前でした。しかし、このクラップスケートが登場したことで、競技の記録は劇的に塗り替えられることになったのです。この記事では、クラップスケートがどのような仕組みで動いているのか、なぜかかとが浮く必要があるのかという理由を、初心者の方にも分かりやすく丁寧に解説します。
冬季スポーツ観戦がさらに楽しくなる、スケート靴の驚きのテクノロジーについて一緒に見ていきましょう。これを読めば、氷上の熱い戦いがこれまでとは違った視点で見えてくるはずです。
クラップスケートの仕組みとかかとが浮く理由を詳しく知ろう

クラップスケートの最大の特徴は、つま先部分にヒンジ(蝶番)がついており、かかと側の刃が靴から離れる構造になっている点です。まずは、その基本的なメカニズムと、なぜあのような動きをするのかについて掘り下げていきましょう。
つま先のヒンジがもたらす革新的な構造
クラップスケートの最も重要なパーツは、つま先付近に取り付けられた回転軸となるヒンジです。従来のスケート靴は、靴底とブレード(刃)を支える台座が前後2箇所でしっかり固定されていました。そのため、足を上げるときはブレードも一緒に氷から離れるのが普通でした。
一方、クラップスケートはつま先の1点だけでブレードと繋がっています。これにより、足首を伸ばして地面を蹴り出す際に、靴だけが持ち上がり、ブレードは氷の上に残るという動きが可能になりました。この「離れる」という動作こそが、スピードスケートの常識を覆したのです。
また、かかと部分には強力なスプリング(バネ)が内蔵されています。蹴り出した後に足を浮かせると、このバネの力によって離れていたブレードが瞬時に靴の裏へと引き戻されます。このとき、かかとが台座に当たる音こそが、あの独特な「クラップ音」の正体です。
かかとが浮くことで氷を蹴る時間が長くなる
なぜ、わざわざかかとを浮かせる必要があるのでしょうか。その最大の理由は、氷を後ろに押す時間を極限まで長くするためです。固定式のスケート靴では、かかとを上げようとすると、同時につま先側の刃が氷に突き刺さってしまい、それ以上は氷を押すことができませんでした。
クラップスケートの場合、かかとが浮いても刃の全体が氷に密着したままの状態を維持できます。つまり、膝を伸ばし切り、さらに足首を最後まで伸ばし切る瞬間まで、氷にパワーを伝え続けることができるのです。これは、短距離走で例えると「つま先立ちで最後まで力強く地面を蹴る」感覚に似ています。
一歩一歩の蹴り出しで得られる推進力が大幅に増えるため、最高速度が格段に上がります。結果として、従来のスケート靴に比べて、同じ体力でもより速く滑ることが可能になったのです。この「押し切る力」こそが、クラップスケートの真髄と言えるでしょう。
ブレードを氷に平行に保つメリット
クラップスケートの利点は、単に長く押せるだけではありません。蹴り出しの最後までブレードが氷に対して水平に近い状態を保てることも大きなメリットです。固定式の場合、どうしても最後は刃の先の方だけに力が集中してしまい、氷を深く削りすぎて抵抗になっていました。
しかし、かかとが離れる仕組みのおかげで、力を入れている最中も刃の広い面積が氷に接しています。これにより、エネルギーのロスが少なくなり、スムーズな加速が得られるようになります。氷を無駄に傷つけず、効率よく滑走エネルギーに変換できるようになったのです。
この仕組みは、特に後半の粘り強さが求められる長距離種目でも威力を発揮します。疲労が蓄積した状態でも、効率的なフォームで滑り続けることができるため、全体的なタイムの底上げに繋がりました。技術的な進歩が、選手の可能性を大きく広げたのです。
なぜかかとが浮くと速くなる?スピード向上のメカニズム

かかとが浮く仕組みが理解できたところで、次はそれが具体的にどのようにスピードへ変換されるのか、その科学的な理由を見ていきましょう。人間の体の構造とスケートの動作が、どのように組み合わさっているのかがポイントになります。
ふくらはぎの筋肉を最大限に活用できる
クラップスケートの導入により、選手は「ふくらはぎの筋肉(下腿三頭筋)」をフルに活用できるようになりました。固定式のスケート靴では、足首を固定したまま太ももの力だけで押す必要がありましたが、クラップスケートは足首の「底屈(ていくつ)」という動きが可能です。
足首を伸ばす動作が加わることで、人間が持っている跳躍力に近いパワーを氷に伝えることができます。ふくらはぎは瞬発力を生み出すのに非常に優れた筋肉であり、ここを使えるようになったことは、エンジンが1つ増えたような劇的な変化をもたらしました。
具体的には、一歩あたりの出力が数パーセント向上すると言われています。たった数パーセントと思うかもしれませんが、1分1秒を争うトップアスリートの世界では、この差が勝敗を分ける決定的な要因となります。筋肉の使い方が変わったことで、トレーニング方法までもが一変しました。
摩擦抵抗を減らし効率的な滑走を実現
スピードスケートにおいて、氷と刃の間に生じる摩擦抵抗は最大の敵です。固定式スケートでは、蹴り出しの終盤に刃の先端が氷に食い込み、ブレーキがかかってしまう現象が避けられませんでした。これが「チップ・イン」と呼ばれる現象で、速度低下の原因となっていました。
クラップスケートは、かかとを浮かせることでこのチップ・インを劇的に減少させました。最後まで刃を氷の上に滑らせたまま押し切ることができるため、加速の邪魔をする抵抗がほとんど発生しません。氷の上をなでるように、それでいて力強く押すことができるのが理想の形です。
この効率性の向上は、トップスピードの維持だけでなく、コーナーリングでも大きな助けとなります。スピードが出た状態で遠心力に耐えながら氷を押し続ける際、クラップスケートの柔軟な動きが安定感を生み出し、より鋭いカーブを描くことを可能にしています。
ストライドが伸びて歩数が減る効果
一歩あたりの推進力が増えるということは、同じ距離を滑るのに必要な歩数(ストライド数)が少なくて済むことを意味します。これにより、同じ心拍数や体力消耗であっても、より長い距離を高いスピードで維持できるようになりました。
例えば、500メートルのレースにおいて、わずか数歩分でも歩数を減らすことができれば、その分だけエネルギーを温存したり、ラストスパートに回したりすることができます。一歩の伸びが、レース全体の戦略を大きく変えたのです。選手のフォームも、より大きく、ダイナミックなものへと進化しました。
以下の表は、固定式スケートとクラップスケートの主な違いをまとめたものです。これを見ると、いかにクラップスケートが理にかなった構造であるかが分かります。
| 比較項目 | 固定式スケート(旧型) | クラップスケート(現在) |
|---|---|---|
| かかとの固定 | 完全に固定されている | 自由に浮き上がる |
| 主な動力源 | 太ももの筋肉 | 太もも+ふくらはぎの筋肉 |
| 氷への接地時間 | 短い(途中で離れる) | 長い(最後まで押せる) |
| 氷への抵抗 | つま先が刺さりやすい | 平行を保つため抵抗が少ない |
| 最高速度 | 限界があった | 劇的に向上した |
クラップスケート登場の歴史と世界記録への影響

現在では当たり前のように使われているクラップスケートですが、かつては「異端」と見なされていた時期もありました。この発明がどのように広まり、スピードスケート界に革命を起こしたのか、その歴史を振り返ってみましょう。
オランダでの研究から生まれた発明
クラップスケートのアイデア自体は19世紀から存在していましたが、実用化されたのは1980年代のオランダでした。アムステルダム自由大学の研究者たちが、人間の身体運動をより効率的に氷へ伝える方法を追求した結果、ヒンジ式の構造にたどり着いたのです。
最初はジュニア選手や体力のない選手向けの練習器具として試されましたが、その驚異的な性能が次第に注目されるようになりました。しかし、当初は「邪道だ」「見た目が格好悪い」といった保守的な意見も多く、トップ選手たちが採用するまでには時間がかかりました。
そんな空気を一変させたのが、オランダ国内の大会での圧倒的な記録更新でした。クラップスケートを履いた無名の選手が、次々とトップ選手を追い抜いていく光景を目にし、世界中のコーチや選手たちがその実力を認めざるを得なくなったのです。
長野オリンピックでの衝撃的なデビュー
クラップスケートが世界的にその名を知らしめたのは、1998年に開催された長野冬季オリンピックです。この大会は、ほとんどのトップ選手がクラップスケートに切り替えて臨んだ初めてのオリンピックとなりました。そして、驚くべきことに全種目で世界記録が更新されるという事態が起きました。
特に男子500メートルでは、日本の清水宏保選手が金メダルを獲得しましたが、彼もまたクラップスケートを使いこなした一人でした。それまでの記録が次々と塗り替えられていく様子に、世界中の視聴者は「スケート靴の進化が競技そのものを変えた」と確信したのです。
長野大会以降、固定式のスケート靴で戦う選手はトップレベルではほぼ皆無となりました。まさに「クラップスケート以前」と「クラップスケート以後」で歴史が分かれるほどの衝撃的な出来事でした。この革命によって、スピードスケートは新しい時代へと突入しました。
道具の進化が変えた競技の魅力
クラップスケートの普及は、記録の向上だけでなく、競技の戦術やトレーニング内容にも大きな影響を与えました。かつてはパワー重視だった滑りが、より洗練された技術とバランス、そして足首の柔軟性を活かすスタイルへとシフトしていったのです。
また、この道具の進化は女子選手の記録を飛躍的に伸ばしました。筋力に頼りすぎず、効率的な体の使い方でスピードを出せるクラップスケートは、女子選手の特性に非常にマッチしていたのです。これにより、男女問わずスピードスケートという競技全体のレベルが底上げされました。
現在では、さらに軽量な素材や、個々の選手の足の形に合わせたオーダーメイドのブーツなど、クラップスケート自体の改良も続いています。道具と人間の融合が、限界を超え続ける原動力となっているのです。
なぜ昔は使われなかったの?
クラップスケートの仕組みはシンプルですが、実用化には高い技術が必要でした。特に、離れた刃を正確に元の位置に戻すスプリングの耐久性や、氷の激しい衝撃に耐えるヒンジの強度が不可欠でした。また、選手の側も「かかとが浮く」という不安定な感覚に慣れるための新しい練習が必要だったため、普及には時間がかかったのです。
クラップスケートを履きこなすための技術と難しさ

誰でも履けば速くなれるというわけではありません。クラップスケートには、その特殊な仕組みゆえの難しさがあり、使いこなすためには高度な技術が要求されます。トップ選手たちがどのような点に気をつけて滑っているのかを解説します。
重心移動とタイミングの重要性
クラップスケートで最も難しいのは、かかとを浮かせるタイミングです。あまりにも早くかかとを浮かせてしまうと、体重が刃の前に乗りすぎてしまい、かえってバランスを崩したり失速したりする原因になります。氷を最後まで押し切る「溜め」が必要なのです。
選手たちは、自分の体重が最も効率よくブレードに乗るポイントを、ミリ単位の感覚で探っています。重心を低く保ちながら、最後の一押しで足首をしなやかに伸ばす技術は、長年のトレーニングの賜物です。一瞬のズレが命取りになる、非常に繊細な操作が求められます。
また、氷を蹴った後にブレードが「カチッ」と戻る際、その反動で姿勢を崩さないようにすることも重要です。この戻る力を次の動作へのリズムに変えることができるかどうかが、一流選手への分かれ道となります。道具を自分の体の一部のように操る感覚が必要なのです。
独特な「クラップ音」が示すリズム
試合中に聞こえる「パチン」という音は、実は選手の好不調を判断する材料にもなります。一定のリズムでクリアな音が聞こえてくる場合は、蹴り出しが安定しており、無駄のない動きができている証拠です。逆に、音がバラついたり、鈍い音が混ざったりするときは、疲れやフォームの乱れが出ている可能性があります。
選手自身も、この音を自分自身のリズムを確認するための合図にしています。会場の静寂の中に響き渡るクラップ音は、まさに氷上のビートです。観戦する際も、音に注目してみると、選手の調子やレースの展開をより深く理解することができるでしょう。
短距離では激しく速いクラップ音が響き、長距離ではゆったりとした力強い音が一定の間隔で聞こえてきます。種目によって異なる「音の表情」を楽しめるのも、クラップスケートならではの醍醐味と言えます。
カーブでのコントロールの極意
スピードスケートの勝負どころは、何と言ってもコーナー(カーブ)です。時速60キロメートル近いスピードでカーブに突っ込む際、クラップスケートの不安定さはリスクにもなります。かかとが浮くことで足元がグラつきやすいため、非常に強い体幹とバランス感覚が必要です。
カーブでは左足を右足の前に出す「クロス」という動作を繰り返しますが、このときもクラップスケートの仕組みが活かされます。遠心力に対抗しながら、斜めに氷を押し出す際、かかとが浮くことでより深い角度まで氷を捉え続けることができるのです。
ただし、このときに刃を引っ掛けて転倒するリスクも高まります。クラップスケートが登場した当初は、カーブでの転倒シーンが増えた時期もありました。現在では、選手たちは専用のトレーニングでこの不安定さを克服し、驚異的な傾斜角でコーナーを駆け抜けていきます。
スピードスケートのカーブでは、内側に倒れ込むように体を傾けますが、その角度は45度以上になることもあります。クラップスケートの可動域の広さが、このダイナミックなコーナリングを支えています。
観戦がもっと楽しくなる!クラップスケートの注目ポイント

クラップスケートの仕組みを理解した上で、実際にレースを観戦する際にどこに注目すれば面白いのか、いくつかポイントを提案します。これらの視点を持つだけで、スケート観戦の解像度がぐっと上がります。
スタートダッシュの足元に注目
レース開始直後の数歩は、クラップスケートの威力が最も分かりやすく現れる場面の一つです。選手たちは氷をひっかくようにして爆発的な加速を生み出します。このとき、かかとが大きく浮き上がり、ブレードが激しく動く様子をスロー映像などで確認してみてください。
短距離選手の場合、スタートの数歩で勝負が決まるため、このときのクラップ音は非常に速く、連続した打楽器のような響きになります。選手がどのように氷を掴み、どのように足を戻しているのか、その足さばきの素早さはまさに職人芸です。
特に世界トップクラスの選手は、一歩目から刃全体で氷を捉えるのが非常に上手です。かかとが浮くという特性を最大限に利用して、静止状態から一気に最高速へと引き上げる技術には目を見張るものがあります。
他のスケート競技との「刃」の違い
冬季オリンピックでは、スピードスケート以外にも刃を使う競技がありますが、実はクラップスケートを採用しているのはスピードスケート(ロングトラック)だけです。ショートトラックやフィギュアスケート、アイスホッケーでは、かかとが固定された従来の靴を使用しています。
ショートトラックは狭いリンクで激しい接触があるため、クラップスケートのような複雑な構造は壊れやすく、また小回りが利きにくいため適していません。フィギュアスケートはジャンプの着氷時に大きな衝撃がかかるため、固定式でないと足首を痛めてしまいます。
このように、他の競技と見比べることで、スピードスケートがいかに「速く滑ること」に特化して進化した競技であるかが分かります。刃の長さや形状、そしてクラップ機構の有無。競技ごとの道具の使い分けに注目するのも面白い観点です。
ラスト一周の「音」の変化を聴く
長距離レースの終盤、選手たちが限界に達したときこそ、クラップ音に耳を澄ませてみてください。疲れが見え始めると、足の引き上げが甘くなり、音が鈍くなったり、リズムが崩れたりすることがあります。そんな中でも、淡々と正確な音を刻み続ける選手は、非常に高い技術と精神力を持っています。
逆に、ラストスパートをかけた瞬間にクラップ音のテンポが一段階上がる様子は、観戦していて最も興奮するシーンの一つです。音のスピードが上がるということは、それだけ足の回転数が上がり、最後の力を振り絞っている証拠です。
会場で見ている場合は、目で見える情報以上に、耳から伝わってくる情報が臨場感を高めてくれます。氷を叩く力強い音が、選手の鼓動のように感じられるはずです。音に意識を向けることで、レースの緊迫感をよりリアルに味わえるでしょう。
クラップスケートの仕組みとかかとが浮く理由のまとめ
スピードスケートの景色を一変させたクラップスケートについて、その仕組みと理由を解説してきました。最後に、重要なポイントをおさらいしておきましょう。
クラップスケートの最大の特徴は、つま先のヒンジによって「かかとがブレードから離れること」です。この仕組みにより、選手の足首が完全に伸び切るまで氷を押し続けることが可能になり、爆発的な推進力を得ることができるようになりました。
かかとが浮くことで速くなる具体的な理由は、以下の3点に集約されます。
・ふくらはぎの筋肉を最大限に活用でき、蹴り出しのパワーが増大する。
・ブレードを氷に平行に保てるため、先端が氷に突き刺さる抵抗を減らせる。
・一歩あたりのストライドが伸び、より効率的にスピードを維持できる。
1990年代後半に本格導入されて以来、この道具の進化は数々の世界記録を生み出し、競技の歴史を塗り替えてきました。今ではスピードスケートに欠かせないスタンダードな装備となっています。一見不思議な「かかとが浮く動き」や、特徴的な「クラップ音」には、勝つための緻密な科学が詰まっています。
次にスピードスケートを観戦するときは、ぜひ選手の足元に注目してみてください。氷の上で繰り広げられる音と動きの調和の中に、トップアスリートたちの並々ならぬ努力とテクノロジーの結晶が見えてくるはずです。


